“色あわせの着物トップページ"“色あわせの着物とは"“色あわせの着物ご紹介"紫の調和美シック中振袖クールピンクの大胆切替大振袖大人キュート赤の小振袖大正ロマンな淡色中振袖江戸少女の紺色小振袖鮮やかからし色中振袖着物レンタル手作りアクセサリー着付け教室ご案内和裁教室ご案内八木けい子ご案内リンクページレンタル受付・お問合せ
着付け教室ご案内

八木けい子を構成するもの

 

八木けい子の年表

<小学生の頃> 着物と母の思い出

・ 学校から帰ると母が着物姿でおかえりなさいと抱きしめてくれた。その時のかっぽう着の、袖のふくらみがふんわりとやわらな感覚で、それがとても大好きでした。今でも忘れられない。いつか私も母のようになりたいと思っていた。

・ 油絵を習う。先生が渡欧してしまい、10ヶ月で終了。しかし、絵の基礎を習った。

 

<中学生の頃> 着物と宿命 ・ TVをつければ偶然か必然か、着物に関することばかりでした。

・ イベントがあると母にお願いし、着物を着せてもらい、髪も結ってもらっていた。デートをするときも着物で出かけることもあった。

・ 母はいつも着物を縫う人で、それをみて育った。くけ台を滑り台にして遊ぶこともあった。

 

<高校生の頃> デザインと洋裁 ・ 自分でデザインした服に興味をもつようになった。

・ 学校にはそういった部がなかったので自ら部員を募集し部活を立ち上げた。

 

<会社員の頃> 洋裁そして結婚 ・ 会社を勤めながら文化服装学院で洋裁を学んだ。

・ 結婚してからも会社に勤めていたが、出産を機に退社する。

 

<専業主婦となってから> 着物への想い復活

・ お腹に子供がいることが発覚すると、幼少期に母に着物で抱きしめてもらったことを思い出し、自分の子供にも同じことをしてあげたいと思うようになった。着物復活。

・ 毎日着物で家事をしていた。

・ よりキレイに、きちんと着物を着たいと思うようになり、2歳の子供を連れて学べる所を探し、着付け教室に通った。

 

<八王子での6年> 着物と和裁と茶道

・ 毎日着物を着ていたら、近所の人から声をかけられる。

・ 八王子には和裁学校を出ていた従姉妹が住んでおり、従姉妹を講師に和裁を習い始める。

・ 最初は浴衣を縫うところから始まった。

・ 従姉妹から教わっていた和裁教室で浴衣が出来上がると一緒に和裁を習っている人が自分で着たいという思いから着付け教室を頼まれ、自宅で教え始める。

・ 同じような時期に着物学校をやっている友人から声が掛かり、学校の着付講師を頼まれる。以後、28歳〜43歳の15年間講師を務め、副学院長までやることになった。

・ 幼稚園で役員をやることになったとき、同じ役員の中に茶道の先生がいたので、茶道を習い始める。「毎週違う着物で行きたい!」という想いから、毎週着物を作ることになる。

 

<川崎での11年> ヘアメイクと美容師の勉強。そして着物コンサルタント。

・ 友人の着物学院を手伝っていたこともあり、自宅の着付け教室も川崎校として生徒を受け入れてやっていた。

・ 38歳〜41歳の3年間はヘアメイクの夜間学校へ通う。

・ 小学校の役員をやっていたら、同じ役員の人に着物の展示会に誘われる。すると、以前、たった2日間だけの呉服屋バイトで仲良くなった人がそこにいた。一緒にやらないかと誘われ、着物コンサルタントを6年間やることになる。

・ 子供の大学受験の際、子供の教育の為にも自分の為にも一緒勉強しようと、美容師の通信教育を始めた41歳。4年間の教育で45歳の時にストレートで美容師の資格を取得する。

 

<横浜へ引っ越す>  出会いの連続
*** 秋山先生との出会い 半幅帯2枚を使った創作帯の誕生 ***

・ 45歳の11月に横浜へ引越したのを機に、翌年の9月で着物コンサルタントを辞めることになった。辞める直前の最後の展示会で秋山先生と出会う。

・ 秋山先生は普段は川崎の展示会には来ない人であり、後にも先にもこの時限りだった。展示会では3枚の振袖を非売品として展示していた。その振袖が今までにないものだったので、とても驚いた。誰にも着こなすことのできない物だと思えるほど、興味深い作品が心を引き付けた。

・ 秋山先生はろうけつ染めの先生であり、幻のマドレー染めを復活させた方です。 展示会では「世界で一番効率の良い裁断はシンプルで誰にでも対応できる日本の着物だ!」と説明し、先生の作品だけでなく、その言葉に感動!もっと先生と着物の話がしたいと名刺交換をする。

・ 辞めてから直ぐの10月、町田の展示会で先生が来ることを知り、再会する。その時に着物のことを語り合い、お互いの夢を語り合い、共感しあう。何かコラボレートしたいと、先生の作る着物に合う帯結びを考え始める。創作帯の始まり。

・ 先生の着物に合う帯を追求するうちに、ついに2枚の半幅帯を使った帯結びが誕生した。47歳の時。

・ 秋山先生の案内で染め体験をしに京都へ行くようになる。そこで職人さん達と出会い、日本伝統工芸の現代の現状における厳しさを知る。

・ 2ヶ月に1回、1年くらい、友人と一緒に京都の工房へ通い、ハンカチやTシャツ、帯揚げなどの小物の染めをやっていた。

・ ある時、先生の染めた余り布を頂いたので、母へのスカーフを作ってプレゼントをしたら、とっても喜んでくれた。そしてひと言「良い柄だね。着物になったらいいのに。」そのひと言で母へのプレゼントとして着物を作ってみようという気持ちになる。49歳の時。

・ 先生に自分でも着物を作れるかと聞いてみると、2泊3日で作れることを知った。実際に作って母にプレゼントしたら派手すぎて自分の着物になる。

 

秋山先生の作品

 

 

 

*** フランス人画家マムドウさんとの出会い 色あわせの着物の誕生 ***

・ 50歳の2月に辻ヶ花で有名な久保田一久先生の展示会に着物で出かけた際の帰りに、通りがかりのフランス人に声を掛けられる。言葉が通じず、写真を一緒に撮り、名刺交換をする。

・ 1ヵ月後、その時の写真と一緒に手紙が送られてきた。フランス語でわからなかったので、フランス語訳ができる人を友人が紹介してくれた。その手紙には彼の生い立ちから経歴などたくさんのことが書いてあった。彼はフランスでは数々の賞を受賞している有名な画家で、ユニセフに貢献し、パリコレの写真を雑誌に載せてもいる優秀な新聞記者のカメラマンでもあることがわかった。そして自分の経歴や夢を書き、フランス語に直してもらって返信した。すると手紙に書いた夢に感動したマムドさんはその年の8月に家に来ました。

・ 毎年新潟で個展をしているとのことで、その年の9月の個展に友情出演で出してほしいといわれる。2枚の半幅帯結びを展示することになる。

・ マムドウ氏はミュージカル「お蝶夫人」をみて、油絵15枚を描きパリで個展を開くにあたり、新潟での個展で2枚の半幅帯結びが好評だったので、またコラボしよう!と、八木けい子を誘う。そしてパリへ行くことになる。

・ 51歳の2月。パリの展示会でも同じもので良いと言われたけれど、何か他にないかと探して「あわせ着物」がひらめく。

・ パリの展示会では展示だけでなくパフォーマンスをする。このとき着付けた女の子のご家族が涙を流して喜んでくれました。

・ 「あわせ着物」を売ってほしいと言われたけれど、たった一枚しかない布や思い出の布で作った着物だったので、世界でたった1枚しかない着物を手放すことが出来ず、レンタルを考えるようになる。

 

 

*** 実の妹、高山先生の紙粘土作品との出会い かんざし創作の始まり ***

・ 53歳の誕生日にかみねんど作家であり、実の妹である高山先生のかみねんど作品を初めて見る機会があり、その感性や色使いの素晴らしさ、心のこもったあたたかい作品に感動する。そして、紙粘土を使ったお皿や小物入れなどを習い始める。

・ 55歳。今年に入って、人に誘われて行った交流会で竹内さんと出会う。この出会いがきっかけで「色あわせの着物」のレンタルに向けて本格始動することになる。

・ 2009年6月。壊れたかんざしをたくさん頂く。

・ 8月に紙粘土でかんざしを作れないだろうかと思い立つ。9月30日の写真撮影会に向けて高山先生のサポートの元、急ピッチでオリジナルのかんざし作りがスタート。

・ 9月30日色あわせの着物の撮影会。

・ 12月24日色あわせの着物レンタルHP完成予定。

 

 


inserted by FC2 system